掃除について

僕は綺麗な場所が好きだ。
別に展望台から見える夜景やオランダの風車等、大げさなことを言っているわけではなくて、単に汚れてない部屋っていいよね、という話である。
僕が訪れる友人宅は、全てクリーンな状態を保っていることを祈る。


こんなことを僕が言うと、僕を知っている人の中に、口ぐちに
「何言ってるんだ、お前の部屋は常に汚いじゃないか!」
と叫びだす人たちがいる。
だが彼らは何も分かっていない。
「綺麗な部屋が好き」「めんどくさいから片付けたくない」
この二つは排他的ではない。
要するに、いくら綺麗な部屋が好きであろうと、めんどくさいから片付けたくない気持ちがあまりに強かったら、部屋は片付かないのだ。僕は言うまでもなくこのタイプである。
仮にお部屋を掃除してくれる妖精さんが突然僕の家に住み着いてくれるとしたら、大歓迎するだろう。
ゆえに、僕の「綺麗な部屋が好きだ」は真である。


さて、僕が綺麗好きなのはわかってもらえたと思うが、掃除ということについて考えてみたい。
僕は、汚さには二通りあると思っている。
「見える汚さ」と「見えない汚さ」である。
是非皆さんも、アメリカの家にホームステイする経験をしてみて欲しい。
1日目、君は家に案内されてホッとする。
家具は整頓されているし、ベッドもきちんと綺麗に使われているようだし、素敵な家だなと思うだろう。
しかし数日後、君は落胆とする。
裸足で歩くたびに足の裏がジャリジャリ感を覚え、だんだん黒くなっているのに気付くからだ。
このような経験というのは実は日本でもあった。
ひどいラブホテルというのは、「見える汚さ」にばかり気を配り、「見えない汚さ」には気を配らない。
一見綺麗に整頓された部屋であるが、何か違和感がある。
そのラブホテルから帰るとき、全身に痒みを覚えたのをよく覚えている。


例えばあなたがハウスダストやダニにアレルギーを持っているとき、それらをパッと見で確認するのは難しい。
大事なのは、「見える汚さ」よりも「見えない汚さ」のほうが有害である、ということだ。
部屋に散乱している本を重ねて部屋の端に寄せたり、部屋の中央に横たわっているベースを壁に立てかけたりすれば部屋は綺麗になったように見えるが、単にモノの位置が変わっただけであって、そうした有害さの除去には至っていない。
もちろん、有害さの除去のために掃除機や雑巾をかけるときに、「見える汚さ」を除去する(大きなものを端に寄せる等)ことが必要じゃないか、というのはそうである。
しかしこれを見た男性諸君はよく考えてほしい。
一体どれほどのペースで、僕たちは掃除機をかけるのだろうか?
僕は週1程度が平均的じゃないだろうか、と予想している。
それならば、週に1回、掃除機をかける直前に「見える汚さ」の除去をすればいい話じゃないか。
これはコンピュータの比較的新しい言語の考え方(遅延処理)だ。
毎回ゲームをするたびにゲーム機を取り出し、しまうのに手間をかけるのはどう考えても無駄であるし、ベッドに本が放置してあればすぐに読めて便利じゃないか。


僕はこんなことを考えていて、頻繁な片付けという行為がとても無駄に思えてならないからやりたくない。
もちろん、僕がお邪魔する家の人が潔癖症で、常に「見える汚さ」すらも除去している人であることは嬉しい。
きっと掃除が好きなのだから、僕がゲームをプレイするように、彼も掃除していればいいと思う。
彼はハッピーで、僕もハッピーだ。
しかし、僕が頻繁な片付けを強いられるような家で暮らさなければならないなら、僕はハッピーじゃない。